昭和43年10月15日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
教典の最後のところは、もうほとんどが取次ぎ者という、いわゆる先生方に対する、御理解の様に御座います。この94節も矢張りそうですね。「信者に不同のあつかいをするな」とこう仰っとる。矢張りそれから取次ぎ者に対する、御理解だと思うんですけれども、取次ぎを頂く私共、又は取次ぎをさせて頂く私共、矢張りここからこの94節からね、大切な事を矢張り頂かなくてはならんと。こう思うですね。
物を余計に持って来ると、それを大切にする様な事ではとか、物を余計に持って来るって事は、お供えやらが沢山出来るという意味でしょうね。お供えがどんどんでけると、先生がその信者を大事にする。と言う様な事ではいけないと言う事は、毎日お参りをしてくる信者ね、毎日お参りしてくる信者だかそれを大事にする、もう長年信心が続いておるからその信者を大事にする。
都合によって矢張り良い信者を、頂きたい良い信心をとこう思っておっても、月に一回しかお参りが出来ない様な人もおる。例えば大山さんなんかは宮崎の山の奥におられますから、もうそれこそ年に御大祭の春、秋大祭に二回ぐらいしかお参りがでけない。それでも矢張り宮崎の山の中から合楽の方を毎日伏し拝んでは、頂いておる御教えを心の中に念じながら、毎日をお取次ぎを頂いておかげ頂いておると言うておられます。
だから年に二回位しかお参りがでけんけん、それが詰らん信者と云う事じゃない。と言う事もよう分かりますね。かと言うてもうんなら何十年信心が続いておるから、そういう信者だから大事にすると言った様なそれは今日始めて参った信者であっても、まだ何回しか参って来てない信者でも何十年参った信者でも矢張り同じだと。最後に信心の厚いのが真の信者じゃと、こう信心の厚いというのは篤信の徳が書いてございます。
竹冠に馬ですから私共としてはこの信心の厚いのが、真の信者じゃと仰るんで御座いますから、その手厚い行き届いた信心を真の信心を目指しての信者こそが、良い信者であり、真の信者だと言うので御座いますから。なら果たして私共がですね良い信心を目指しておるか、真の信心を目指しておるか、より真の信者真の信心を頂きたい。真の信心を、信心、本当に分からせて頂きたい。
という念願に燃えての信心信者こそ篤信の者であり、信心が手厚いと言う事になる。物を余計に、お供えでけるとか、毎日お参りをしておるとか、もう長年の信心が続いておると言う事が、あながち篤信じゃないと、言う事をですね。先ず私共は、分からしてもらわなければいけんのです。昨日、うぅん久留米の井上さんが、御用にみえられれ、あそこで三橋先生が、(?)。
三、四人、佐田さんもでしたか私の控えで色々信心話に花が咲きまして、今度井上さんご親戚の結婚式の為に、大阪の方におい出られまして、それで上野勝子さんがおかげを頂いとります、泉尾の教会にもお参りをさせて頂いて、もう唯唯もうびっくりしてあまりにも 大きなその教会ですしね。本当にまぁ素晴らしい教会でらしいですね、そのあちらで一番関心した事はですね。
もう始めて参った私共に対して、もう本当に信者の一人一人が、親切じゃあるのが、驚いたと言われます。御祈念は六時ぐらいからですね、丁度本部の金光様の様に、あの金光様、あのあちらの親先生が入られる。ちゃんと親先生が入られる、ちゃんと入口があって専用の、やっぱりあのお提灯を点けられて、お提灯を先頭に、五時半からお勤めになるそうです。朝、五時半から御祈念があって、沢山参って来ておる。
信者のお取次ぎを、一人一人なさるそうでございますね。そういでまぁ、御祈念を頂いて、御理解を頂いて、そして帰ろうとさして頂きましたらね、もう信者さん方ね、この火鉢があって、火鉢の周囲に沢山、こう寄り集まっておられる。そしてその始めて参って来ておる、私達にあの、お急ぎでなかったら、こちらにお入りなさいませ。お急ぎでなかったら、こちらに暫くでも、お出でなさいませ。
と言うてその火鉢の所に、誘われるそうです。どこおっても皆んなが、そして、どちらから、お参りでしたか。と言うてですね、一生懸命、朝参りからとうとう、八時頃まで動きが取れないぐらいに、その一生懸命熱心に、皆さん話して下さる、ね。そしてもう、その頃になるともうやっぱ、お腹が( ? )、食堂行って、ご飯を召し上がっておいで。と、言う訳なんですね。
なんか五十円くらいでその食券を買うと、もう大変な大きな食堂があってですね、そこでやっぱ、沢山の人達が、あの勤めなんかの人は、そこでもう食事を頂いて話を頂いて、そこから勤めに出ると言った様な、仕組みになってるらしいんですよ。だからもう始めて参って来た、信者でも一人でも、逃すまい。というよりも、そういう信心の中にね、こう包み込もうとする。
その迫力というかね、皆さんの熱意にゃもう唯々もう恐れ入ってしもうた。と言うてから私がある方に、あのここの合楽の(?御信者さん)と。ところの非常にそのなんと言うですかね、もう本当に親戚者の同士の様に、皆んながこうなんと言うですかね、固まっておられるというかね、合楽はですから所がですねその他人が全然、入り込まれない様な雰囲気があるのは、実に対照的だった。と言うておられました。
こりゃ本当にあの、えなければいけない事ですね。確かにその合楽、合楽の人達はひとつのエリート意識とでも申しましょうかね、例えて言うなら美登里会なら美登里会、菊栄会なら菊栄会という人達ゃ、もうむしろあの入れまいと言った様な雰囲気すら感じられると言う訳なんですね。自分たちのグループだけで固めといてから、言った様なその物、特にあちらに行ってから感じたというておりす。
本当に私も聞かせて頂いてから中心の私自身が本気でその辺の所の、いわば所謂真の信心を私が確かにですね。菊栄会美登里会と言った様な特に、こう大事にしておる様な、向きがあるのではなかろうかと私は改めて感じたんです。そして今朝のこの御理解を頂いてから。本当にあの不同の扱いをしよらん様にあっても。やっぱり不同の扱いをして居る様な事が、信者の上にもそう言う様な結果になって来ておるんじゃなかろうか。
と言う風に私自身、感じたね。そしてそのもうあちらでの皆さんおかげ頂かれまして、非常におかげを受けられるそうですね。ある人の話しだと。先日から、主人が、具合が悪う御座いましたと、して親先生にお取次ぎをさして頂いたら、うんあなたが、家に帰られるまでの間に、おかげを頂きましょうね。と言わしゃったそうです。それならお願いに来てから、帰って、帰ったらもう、主人がおかげを頂いておったとかね。
どうも、体の具合が悪いから、旅行しなければならんのに、一人でも車中ででもおかげを受けたらいいですから、車中で、おかげを頂く様に、お願いしましょうね。と仰ったげな。というのは車中でちゃんと、その元気になったと言った様な、そのお話らしいですね。お話がだからそのそれを、聞かせて頂いて井上さんが感じた事はですね、このおかげを渡される事だけは、日本一かもしれんけれども、あの信心を渡されるのは、合楽が日本一じゃと言っとります。
信心を頂けれると言う事は、だから合楽の様なもうその教えを元にして、信心を頂く事は何日間かあちらにおりましてね、まぁいちおう毎日お参りはしておりましたけれども、まぁそう云う事には触れる事はでけなかったね。いわゆる合楽では本当に私はそれはほんにね、信心を説くとですからいかに説いても聞かされても、なら私共が真の信心を目指さなかったならけれど何にもならんのです。聞いただけではね。
是も昨日丁度お話を、私が控えで四時頃まで、四時の御祈念、四時の御祈念は、是はしましたから、三時頃だったでしょうか、もう昔の御信者さんで、久留米の櫛原の教会の御信者さんで、もう70幾つかになられる、私が久留米でおかげ頂いておる頃に、よく顔見知りしておるお婆さん達がお二人、まぁ矢張り総代級の、お婆さん達です。もう70幾つになられる。ほら一人は何々会社の社長女で御座います。
社長しておられると言った様なあのまぁ事業家ですよね。その方々がそのお参りをして見えて、まぁあるお願い又お伺いの様な事で参られたんです。そりゃ中々70幾つかになられてもですね、もうやっぱりもうそれこそ長年のより70年間の信心。自分の母親からの信心しよんなさる。まぁもう久留米教会始まっていらいの御信者さんですから、もう言われる事も所謂どうに入ったものなんです。
先日お伺いさして頂きましたら、こちらは少年少女会、学生会の人達が正月には70人もね、その御本部参拝をなさっていう話を聞いたんですが。本当に最近少年少女会の、育成と云う事が盛んに言われますが、どういう先生教導なさればそういう、若い人たちが集まりますかって、知っとられるそういう言葉を表現されます。70幾つかのおばあさんが、少年少女の育成、その育成会館も出来るそうですね。
ちゅうて、やっぱ噂が噂を生んで行く訳です。この頃久留米の青年会の御座いましたですね。もう、合楽青年会の方々で、殆どだったと、そりゃ実際に見ておられます。どうすればそういう、若い青年層の方々の信心がもうでける。結局ここの若先生がしっかりしとんなさるけん、若いもんが付いて来るのじゃろう。と言う事のなってるですね。まぁそういう方達の昔の話を聞かせて頂いておる中に。
大体のその合楽に参られた目的というのはこういう事だったんです。ある久留米のその長い禅宗のお寺さんに、自分所はもう先祖代々からの頼み寺があります。所がそこの坊さんがちょっとその、まぁなまくさ坊さんで非常に身持ちが悪い、そん為に信者がどんどん、その離れていく、そのとうとう仕方の無いからそのお寺をその、お寺をお売り出しになった。信者の60パーセントが、承認すれば売っていいそうですね。
それそうとう大きな二千坪からある、そうですからお寺さん。そこで今度売ってからどっか荒木の田舎の中に、引き移るいうておられます。だからこの際その自分の所もその梅林寺さんか、なんかに禅宗ですからその移りたい。といやぁもう移る様にあちらの和尚様って言うですかねにお願いがしてある。ところがその同じ信者仲間でやっぱり移った人達が、そのもうどうもお寺さんを変わちゃ御霊さんが救われん。
とか助からんとか又御霊さんが、縋って来られ頼って来らしゃった。とか言った様なまぁその私共から聞かせて貰うと、他愛も無い事を、まぁ心配しておられる訳なんです。そいでまぁこっちの、先生にその御霊の事を、なにか私が御霊さんの事が、詳しく分かる様な風に、聞いておられたんでしょうね。ですからその、その御霊さんをまぁ、いうなら拝んでもらいたい。と言う訳なんですよ。
そして別にその事に対して、それに応じたという訳では御座いませんですけれども、「○○さん、あなた方が、70年間も信心をなさっとられますね。そして金光様の信心が有難いので、止められずにお婆さんから、あなた方の時代まで信心がこれで続いております。して現在では久留米の信心の中堅ね。お年寄りでもその中心になって、現在信心を進めておられます。
久留米時代の、石橋先生あたりの、ご信心を頂いておられる方達も、もう残り少なく数はもう少なくなっておられる中に、あなた方がこうやって、もう現在もおかがを受けておられると言う事は、そういう意味合いでも、まぁいわゆる希少価値かというですかね本当に、まぁまれな、御信者さんたちですから、まぁひとついよいよ、良い信心を頂いて、その信心を、若いもんに残しといて頂かにゃなりませんが。
と言うて、まぁお話をした事ですけれどもね。結局私共が初代の石橋先生の、時分にですね、そりゃもう、本当に置いたものを取る様にして、おかげを頂いて来たちゅうね。けれども、その信心が分かっていないと言う事。最近その信心を教えて下さる先生が居なくなった。おかげを取次ぎして下さる先生がなくなった、合楽がまぁちっかっと近いならば、というてからと言われるんですね。
もう合楽にお参りにならんでも、お手続きのお教会で、おかげ頂かれても良いんですけれども、考えて見て御覧なさいませ。あんたん所の御霊さんがそれはね、それはね今のお寺さんに踏み留まっておっても、梅林寺さんに変わっても同じ事ですよと私は申しました。私余談になるんですけれどもその事をお伺いさして貰ったら、あの赤い羽根の募金があってるでしょう。赤い羽根を付けておる所を頂くんです。
皆さん方と言えば、あれを赤い羽根を、買われるんですけれどもね、あれは買うても買わんでも、大した事ないとですよ。それによって本当に、人が助かると言う事はないですね。こりゃこの事を言うと、また大変話、長ごうなりますけれども、唯そりゃ大した事は、決してありません。あれによって、人が助かると言う事はない。いうにですねその梅林寺さんに移ろうが、現在のお寺さんに。
例えば信者が少なくなったからというてもです、なまくさ坊さんであろうが、今は梅林寺さんの坊さんがどれだけ立派な坊さんか、どれだけ人を人を救い救い助けれるじゃなくって、御霊様を救い助けれるだけの力を持って御座るか。同じ事ですよけどまぁあなた方がね気分が梅林寺さんの方が、良いなら赤い羽根をつけとく方が良かなら、赤い羽根を付け取る様な意味でそりゃ移られても損な事は全然、心配入りませんよ。
そいばってん先祖の御霊さんが、助かりましょうかと言われる。そんならあなた改式すりゃ一番良かじゃんの。と言いたいけれども、改式をしてもね改式をしたその教会の先生がですね、その御霊様をお守りしきる先生が亡くなった。っち言われまた。だから坊さんでも教会でんあまり変わらん。ち言うわけですね。そいでその先祖のまぁ御霊さんたちがですね、その梅林寺さんに変わると言う事がどうじゃろう。
それは今言う赤い羽根と同じ事で、たいした変わりはないんだと。という話をさして頂いてからね「○○さん、あなた方が70年間ねお道の信心を続け、毎日日参りを続けて、おかげを受けておられるあたなた方が、日々おかげを受けておられるでしょう。お取次ぎを頂いて、おかげを受けておられるでしょう。しかもあなたは仏教のいうならば信者でもある訳で、先祖代々からちゃんとお寺さんに、まぁ頼んであって。
仏先祖様の何かといやぁ仏教でなさっとられるんですけん、いわば仏教の信者であって、金光様の信者でもある。そしてあなたは毎日お取次ぎを頂いてから、実際におかげを受けておられるでしょうが。同じ事ですよ人間の世界でも御霊の世界でも、いや御霊の世界の、いや先祖の事でもお取次ぎを頂いて、金光大神のお徳によってするならば、救われていない御霊でも、救われん事はありません。
必ず金光教に改式してしまう事はいらん。あなたが助かっておられる様にですね、御霊様も救われ、助かられる事だけは、間違いない。はぁ、御霊様の事ばお取次ぎ頂くちゅうて云う事は、始めて聞きました。そんな事はない筈ですけども、始めて聞く様に喜ばれました。もう先生今日は、お参り行った甲斐が御座いました。もう私も今度とは、梅林寺さんにども移ったら、一番くちに梅林寺さんに、お世話にならな。
ちゅうわけです。といでもうほんに金光様、梅林寺様っち言うなんになりゃ、どうするじゃろかっち思いよったら、本当に今からお取次ぎを頂いていけばよいですね。っち。今からまだ生きとる間から、御霊様になる事だけの、お取次ぎを頂いておれば、先生大丈夫ですね。先祖の御霊様もお取次ぎを頂いていけば、あのお寺このお寺ってそげな例えば、御霊さんが、その頼みに来なさる。とか移ったけん、もとのお寺に戻してくれとか、そげんなんてん、御霊様がなくなりますでしょって言った。
所がその、そういうなんがあるそうですたいね。同じ御信者。あそこでは高徳さんでしとらんと、そのお夢の中にですね、あげなお寺に移るというか、その、細かったちゃ、どうだっちゃあ、昔のお寺が良かけん、昔のお寺に戻してくれっちいうてから、お父さんが言いなさった。だから私はそれが心配で心配でたまらなじゃったと、こう言われるです、どうでしょう。70年間、真の信心を続けておられたら、とてもとてもそう言う事のお伺いに来んでも済む訳です。
ですからさぁ何十年間続いておるけんっち。この方は大きな建設会社の女でも社長さんですから、もう大変な御用がでけておる訳ですよね。ですからその御用が出来ておるから、何十年続いておるから、いうならここで頂きますと、私良い信者じゃないと言う事は、とくしんね。信心の篤いのが、真の信者と仰るが真70年続いておっても、真の信者じゃないと私、思うですね。お取次ぎのいわゆる絶対信。
それはね言葉においては、私今も申します様にいわゆる、少年少女育成っと言った様な事を言葉に出してから、現在の金光教を語られるんですけれども、肝心要の所が助かって御座らん。それではいわば私共、ここにね信心の篤いのが、真の信者だぞと。仰る信心の、手厚い信心をさせて頂いて、真の信者を目指さにゃならんが、果たしてお互いが、なら真の信心を目指して、どの様に真の信心が身に付いていきよるか。
と言う事をですね、思うてみなければいけない。いよいよ明日に教祖大祭記念祭を控えて、今日は前夜祭が9時から御座います。その記念祭に、私共がここに教会としてお許しを頂いてからまる一年間になる。一年間の間に私共がどれだけのおかげを頂いてきたか。と言う事よりもですね、どれだけ真の信心を身につけたか。と言う事を私はいわゆる、どれだけ本当に信心にお育てを頂いたか。と言う事を御礼申し上げる、
記念のお祭りでなからにゃければならんと思うのですよ。一年前にはこうだったけれども一年後には、こうだったと。ね。 昨日、そうにょう、おかげで今度の、記念祭の記念品になります、「金光教教典感話」というのがでけて参りました。始めて「大坪総一郎」を現す所の本がでけた訳です。是は夏の御大祭じゃない、夏の夏季修行の時に50日間、毎日私が一時の御祈念の時に。
解いてそれをトハン(黒板)に書いたものを、そのままもうそのまま、訂正しないそのままを、是に修めて御座います。 もう大変に念の入ったものです。夕べ見てから私ほとほと感心しました。田舎の印刷やでこんなに立派なものが出来る。それが御教えが50節。それに対するそのあの時の解説がそのまま是掲載して御座います訳ですよ。いうならばですこの様に合楽の信心が、一年間の間に育ったと言う事です。
この様な物が出せる所まで。そしてその例えば94節を頂いてから、私はこの今日はあの感話集を今開かせて頂きましたら、御神戒の一番最後のね「信心する人の真の信心のなきこと。」と言う所を頂きました。ですから私共一年間の間にその信心が、どれ程身に付いて行きよるか。真の信心がどれだけどれだけ、私共が手厚い信心をさせて頂いたら、ここまでおかげを頂いたか、と言う事をひとつ反省をしなければいけない。
ここにはこう御座います。真の人を目指す事真の信心を頂く為には、先ず自分が悪人であって、真の信心が頂けれる筈がない。ずるい人が真の信心信心を頂く訳頂ける筈がない。それには先ず、私を真の人にならせて下さいという願いが大事だと。次にはね実意丁寧の化け物にならぬ様心がける事と書いてある。えらいこれは皮肉なんです。例えばね何十年間信心をしたとか、よう御本部あたりお参りしますとね。
やっぱそんなんほんと実意丁寧の化け物の様な人がありますよ。もうそりゃもう金光教的言葉というか、態度というかね、もう態度は実に立派です。成程実意丁寧です腰が低いです。けれどもその人のしておられる事、言う事やら信心がもうホケんごたある信心しか頂いておらずに、形だけがですね金光教的信者になっておんのは、これはまさしく実意丁寧の化け物です。これは長い信心教会なんかにゃ、それが必ずあるです。
だから私共でも、そういう化け物にならない、本当の信心が、本当のものに、血に肉になった信心にお育てを頂く事を願わなければ、やえもすると化け物になりがちですよね。次にはね、「真の修行もせず、真の信心の生まれぬこと。」と書いてある。真の修行。真の信心を頂く為には、信心には、修行は付きものですから、唯がむしゃらに、無茶苦茶に修行しただけじゃいかん。
真の本当の修行をしなきゃいけん。「真の修行の第一は、自然の働きを不足に思わず、素直に受けて立つこと。」とここにある。もう修行の本当の修行の第一になるものはね、自然成り行き。自然の働きそのものをですね、不足を言わず、それを受けて、しかもそれを受けて立つ事だと。 受けて立ち上がる事だと。「真の信心には、生き生きとした喜びと、生き生きとしたおかげが伴うこと。」と。
真の信心を自分がしよるか、しよらんかと言う事は、今自分の心の中に生き生きとした喜びがあるか無いかで分るです。しかもその喜びには必ずおかげが伴う。そういう日々の信心生活の中にあってお育てを頂いておるならば、私共は真の信者を目指しておるのでありいわゆるここである「篤い」ね、「信心の篤いのが、真の信者じゃ。」と仰る信心の篤い信者に段々お取立てを頂いておると言う事になるので御座います。ね。
この94節が教師取次ぎをさせて頂く者に対する、御教えと思うので御座いますけれども、ここから、なら私共が頂かなければならない事はです。「ものをよけいに持ってくる」と言った様な、「毎日お参りが出来ておるから。」、「沢山、御用ができよるから、自分は真の信者である。」と言った様な思い違いをしてはならないと言う事。そりゃお参りは、滅多には出来なくてもです。
「自分の心が、真の人にならせて頂きたい。」ね「真の信心真の修行を本気に、それに取り組ませて頂いておる」と云う事。等がですね身に付いていきよるならば、私は愈々教祖が仰っておられる「信心の篤いのが真の信者じゃ」と仰る。信心の手厚い信心が段々でけていきよるのだと云う事を分からせて貰う、どこまでもひとつおかげを頂いて真の信者をお互い目指させて貰い、取分けここ一年間私共が頂いてまいりました。
そりゃ「日本一」と言われる様な教会でも、恐らくは合楽で解いておる様な信心は、取次いではおられない。おかげは取り次いでおられるかも知れんけれども、信心は私は合楽で、皆さんが頂いておられる信心はです。もう本当にいうならば、有難い信心をお取次ぎ頂いておるのですから、それを取次ぎを頂いて、皆さんのものにしていかなければですね、あいすまん事になります。
いよいよ明日の御大祭には、そこのところをです、大いに反省すると同時に、そこの所を、一年間にお育てを頂いた信心を、篤く御礼を申し上げると同時に、これからもいよいよ、真の信心、いわゆる、真の人にならせて頂く事を願いとする所の信心。それを顧みるというかね、反省させて頂くひとつの、大きな一年間の節をですね。これからの信心を進めて行く為の。
元にしなければならないと言う風に思うのです。御理解94節を、ただいっぺん通り読みました。 あぁこりゃ、金光様の先生にくださっとる御理解で。というごたあるけれども、こうして御理解を頂いて見ると、決して金光様の先生だけではない。私共がどこの一字一角からでも、信心を頂かなければならない事を分からせて貰いますよね。
どうぞ。